〇〇×地域おこし×教育(1)
2021年5月13日
民家や公共施設の黒ずんで暗い雰囲気の外壁。その黒ずみを高圧洗浄機の水圧で削り落とすように絵を描き出すアート活動を鹿児島県指宿市を中心に展開しているのがTOMOSHIBIです。TOMOSHIBIは制作過程を通勤や通学途中の地元の人々に見守ってもらい、地域との会話を大事にし、完成する頃には愛着ある作品として、生活の中に溶け込むようになることを目指しています。汚れから新しい価値を生み出すという発想や活動が評価され、地域創生☆政策アイデアコンテスト2020で「地方公共団体の部」地方創生担当大臣賞を受賞しました。
今回開かれた意見交換会では、アートと共存できる街に必要な考え方やあり方について、TOMOSHIBIの瀬戸口さん・MOTORさんがミュージアムエデュケーターの会田大也さんを交えて検討しました。
TOMOSHIBIの作品例
――TOMOSHIBI・MOTORさん
汚れた壁に高圧洗浄機を使って絵を描くという我々の活動の一環として、学生と一緒に絵を描く「Art for school」というワークショップの話が進んでいます。ただ、高圧洗浄機を使って絵をかくのは難しいので、ステンシル方式で型を壁に当てて絵を描くという形で進めようと思っています。この活動を、地域の人向けに自宅に高圧洗浄機がある人のために型枠を貸し出して、アート体験をしてもらう「Art For You」という計画と絡めていけないかと、新しい一歩として検討している活動です。「Art for School」について中学校と打ち合わせして「生徒に型枠を作ってもらって、学校の壁にも使うし、地域の壁にも使ってもらう」というシステムを提案したところ校長先生が喜んでくれたんですよね。校長先生も学生を巻き込んで一緒にできればと思っていたそうなので、その形で話を進めたいと思っています。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
今回の話は校長先生からの「汚れた学校の壁に絵が描けないか」という相談から始まったものなんです。我々としても、学生さんたちとできるだけ早い段階から一緒に取り組みたいと考えていたので、校長先生から「まさにそういうことをやりたかった」と言ってもらったことは嬉しかったですね。方向性が一致していたので、「次年度の5月くらいから美術の時間や技術の時間を使ってできることをしましょう」という話になっています。
――会田さん
質問がいくつかあって、まず「学校規模は大きいのか」という点が気になります。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
小さな学校です。確か、全校生徒で60人と聞いていますね。型枠を作るにしても高圧洗浄機にしても全員でというのは難しいとおもうのですが、校長先生としてはデザインを考えるところでは全校生徒を関わらせたいとおっしゃっていました。
――TOMOSHIBI・MOTORさん
授業時間外でデザインをしつつ、有志を募って作業をするという形にしていくのが良いのではないかなと考えています。
――会田さん
それを聞いて安心しました。というのも、大きな学校だと先生も含めて忙しくて余裕がなく、形だけの活動になりがちなので現実的には難しいのではないかと危惧していたんです。けれど、小さな学校ということで、可能性があるんじゃないかと思っています。
ただ、アートのことなので「成績がつかない授業の枠組み」を使えるとより良いでしょうね。小学校では「総合的な学習の時間」があり、本質的なアートというのはそちらの方が相性がいいんですよね。もしも、「型枠の作り方の上手下手」や「表現の内容の良し悪し」で成績が付くようになってしまうと、それは2人の活動の本意とは異なると思うんです。
あと、「現場の先生の意見を置き去りにして校長と教頭が先走った」という事例もあるので、学校側と慎重に進めるこということは必要です。ただ今回の事例のように学校と二人のゴールが一致しているほど、コラボレーションがうまくいく期待が持てます。
ステンシルの試作品
活動を「アート」にするために
――会田さん
逆説的に聞こえるかも知れませんが、ワークショップを計画する際には、その活動がどのように記録されるか、ということを想定すると、組み立てのヒントになります。私がワークショップを組み立てる際には、当然のことながら、活動の主軸となる活動、つまりメインディッシュにあたる活動がきちんとおいしく作れることが大前提にはなりますが、そのおいしさが伝わるような記録写真、ビデオもあらかじめ想定します。この活動をどんな記録写真とともに説明していけば、直接現場に来てない人へ伝えられるだろうか?ということを考える訳です。それを考えるためにも、「ワークショップスクリプト」と呼んでいる台本を書くようにしています。
ここには、ファシリテーターが発する台詞のみならず、そのシーンでその台詞が必要な理由なども解説してあり、また、そのシーンをどう記録するとよいか、という撮影者への説明も書き込んであります。言わば建築における設計図にあたるものがこのスクリプトです。
このスクリプトを描くと、当日必要になるアイテムや素材、それらの配置などもイメージが掴みやすくなります。実行に必要な全ての準備を「ロジスティクス」と呼びますが、上記のスクリプトが書かれてないと、どうしても見落としが出てきてしまいます。今回の学校での取り組みにおいて、足りてない要素などはありますか?
――TOMOSHIBI・瀬戸口
材料費プラスアルファを先方が捻出してくれるという話だったので、費用を今後どうするか話をしていくことになります。別案件についてもステンシルが必要になってくるので、費用の切り分けや地元の人との関わり方について話をさせてもらえますか。
――会田さん
ちょっと大げさに聞こえるかも知れませんが、まずは「アートという大上段の視点からの話」をしておきたいと思います。「何をもってアートとするか」というところには2段階あると考えていて、まず「絵そのものをアートとする」という段階と、「いわゆる町という風景をかえていく社会活動としてのアート」という段階の構成になっている訳です。当然、絵そのものが何でもいい訳ではないので「描かれている作品そのもののクオリティー」は当然重要です。
ですが、この取り組みについて社会と関わるアートの視点から評価しようとすると、「汚くなってしまった壁」というところを出発地点に、「地域の壁が、煤けたまま放置されてしまっている、という事情」があり、そしてその背後には「高齢化といった社会問題がある」ということが透けて見えて来る訳です。そうした状況に対してTOMOSHIBIの活動では、汚れを逆手に取って絵を描くことで「喜ばれる作品を作る」「街も風景そのものも変わっていく」に加えて、「住む人の意識も変わっていく」こともアートとしての価値の本質になっていきます。その部分をどう物語るかというストーリーが必要になっていきます。
ただニーズに応えて描いていくだけでは語り続けてはいけないでしょう。住民や社会の変化、そして社会全体をどうシェービングしていくかという「社会彫刻1」としてのストーリーが必要になっていきます。
通常では語りの部分「クリティーク(批評)」は批評家が書いていくことが多いです。 TOMOSHIBIの活動についても、社会的活動の意義をサポートしてくれる人がいるといいなと思っています。そして「ステンシルでも意義が変わらない」さらには「ステンシルにすることが面白い展開になる」という論理を組み立てる必要が出てきます。ステンシルにしても、巨大な一枚絵なのか、パーツごとに作るというのもその論理に関わってきますね。ステンシルの際から水が入ってしまうと輪郭線がぼやけるというのもあるし、かと言って全てシールによるマスキングをつかって大量のごみが出てしまうのはいかがなものかという声もでてくるし……と、色々なことが想定されます。そういう論理を組み立てる上でも、様々なステンシルの在り方、特に「際」の部分の実験について動いてもいいのではないかと思います。
ただ、そうした実際的な問題はさておき、お話を伺っていて『「街づくりに参画していく魂は失われないんだ」というプラットフォームさえ描ければ、成功のイメージが描けるのではないか』と思いました。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
「アートの定義」についてのお話の中で感じた疑問を一つ。今回の高圧洗浄機アートの最上級はMOTOR君が岸壁に描いた「浦島太郎と亀」の絵であって、「その絵に影響を受けて、汚れた壁を使って描いていくもの」は、うまい下手に関わらずアートとしていきたいと思うんです。その文脈では、僕らがアートだと言い張ればアートになるという意味なのでしょうが、実際にそれは成立するのでしょうか?
――会田さん
言い切れば成立します。むしろ自分たちが「間違いなくアートだ」と言い切ることが第一条件です。そして、ほかの似た活動を含めたアート表現はあるのか、あればその取り組みを徹底的に調べ上げた上で、「我々のオリジナリティーとは何か」をセットで表明していくことが必要です。美術大学でも過去の作品をめちゃくちゃ調べろと言います。これはたまたま似ているものがあったときに「知りませんでした」は恥ずかしいことだから。ごみとか社会問題を表裏反転させている表現はこれまでにもたくさんあるはずです。「その活動たちと理念が一緒だ」としても、指宿では「なぜ煤けた壁をマテリアル、つまりキャンバスとして選んだのか」について説明出来なければいけません。その上で、活動にインスパイアされた派生された活動も含めてアートである、と主張することは意味があると思います。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
僕らは美大を出ているわけではないので、学術的な面が弱いところだと思っています。「そういう(美大的目線を持った)人たちにも評価されたい」と思っているんですが、こういった考えを持ち続けていくことは良いことでしょうか?
――会田さん
美術の世界は、専門的な教育を受けたかどうかは気にしません。むしろ、“美術史“という知恵を超えていくことを重視します。最新作は過去作品を乗り越えるためにあるんです。ミケランジェロの次にピカソがいて、ピカソの後にウォーホルがいて…、という具合に、過去を乗り越えていくために今があるという考え方ですね。もちろん、アートの道に入る時は「描くことが好き」というモチベーションで良いんですが、突き詰めていくほど「過去とどう関わりがあるか」ということは問われていきます。どんどん地域戦を勝ち進んで、ローカルなエリアから出ていくにつれてそうしたコンセプトや文脈は問われていく訳で、考えなければならない時期が来るということを早いうちから認識しておくのはよいと思います。
活動を広めることと易化してしまうことのジレンマ
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
ステンシルは「際」の部分が大事で、加工から考えるとプラスチックのシートにするのが一番だけど、その一方で金属で作ることも考えています。いっそのこと、型自体をピクトグラムのようにシンプルにしてしまうというのもいいのかな、別物として展開するのもありなのかなとも思っています。
――会田さん
こうした技術的なポイントについて描き手としてはどう捉えていらっしゃいますか
――TOMOSHIBI・MOTORさん
高圧洗浄機で絵を描いたのは1年前からです。でも、自分は以前にもエアブラシや缶スプレーで描く経験があり、噴射系の画材が得意だというバックグラウンドがあるから描けている部分がある。でも、高圧洗浄機アートの難しいところは、失敗が許されないところだと感じているんです。だって、ミスしたからと言って、あえて壁を改めて汚すわけにいかないですからね。そういうことを考えると、ステンシル自体を考えて作ってもらう方が、活動に適しているのかなとも思っているのは事実です。ただその一方で、才能ある子がいればその子に合わせたレベルのワークショップをするのもありかなと思っています。
――会田さん
この高圧洗浄機アートは、エアブラシの書き方に独自性があると考えているので、ステンシルで描くとしてもグラデーションをあきらめない方法を考えていくほうがいいと思うんですよね。スプレーのあてかたや道具の使い方を実験して、ステンシルを使い、かつ誰にもチャレンジできる方法を考えていくほうが画期的です。逆にだれでも簡単に思いつけちゃうことをやっちゃうと、面白さがないでしょう。少しの難しさを持ったほうがいいんです。全国的に見てなぜか指宿市の人たちがスプレーを使った描き方が妙にうまい、なんていうことが起きれば、面白いんじゃないかな。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
自由にやってもらいながら、徐々にMOTOR君みたいに描きたいという方が学べていけるものがあればいいということですか。
――会田さん
そう思いますね。たとえ話ですが、陶芸は奥が深いけど、奥深い技法それそのものがないと成立しない芸術だったとしたら間口はとても狭いでしょう。でも、全国に陶芸の教室がいっぱいあるのは、それがなくても成立する間口の広さがありつつ、奥に行くほど面白い技法があるというレイヤーがあるからなんですよね。そういう意味では、参加の段階によって複数の技法があるというのは面白いと思います。MOTORさんが最初に筆以外の技法として、エアブラシという技法に対して抱いた新鮮な感動があったと思うのですが、その感動が失われないようにすることは、活動を広めるためにも必要だと思う。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
仲間を増やして、数をこなすということも必要ではあると思う。我々がいなくてもできるようにするというのは、この取り組みの本質でありポイントだと思いますね。
――会田さん
絵の描き方でふつうは白いキャンパスに影を入れるんですが、今回は「陰に光を入れる」という手法が取り入れられています。それが、社会のありようにオーバーラップしていくことに意味があるんです。「ピンチこそチャンスだ」と伝わるという、決め台詞というか、メッセージが届いていくことがいいと思っている。
川俣正さんというアーティストの活動を調べてみると、アートが社会とどう結節点を持っているか、社会課題と呼応しているかということがわかるので、こうしたリサーチをしていくと我々が何をしているのかわかってくると思います。ハイコンテキストのところを大上段で話すことは必ずしも必要ではないかもしれませんが、「ただ単にいいことやってるね」で終わらない成果につながっていって欲しいんです。社会的意味のあることが一つの活動が大きな収穫を得られるので、欲張っていって欲しいですね。
アーティストが真に魅力に感じる街とは
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
アートを受け入れる素地ができたときに、次に我々はアーティストが集まる、そして住む街を計画したいと思っています。指宿市が選択した「移住定住促進」という計画の中で、今はいないタイプの人を呼び込むことで「新しいコト」が動く可能性につながると思うんです。
そのためには何がキーになるのか、どういったものが必要になるのかが課題になってきます。例えば、アトリエや住まいは、学校の統廃合で廃校が出るのでそれを利活用する。使うスペースは自由に改造可能で、退去の際も現状復帰の義務をなくすなど、アーティストの創作活動を阻害しない形で進めようとは考えているのですが、きっとほかにも足りないことがあると思うんです。アーティストが集まる要素として、何が必要なのか教えていただけますか?
――会田さん
アーティストも霞を食って生きているわけではないので、ある程度具体的な現金収入が見込めるというのは基本的な人権を守るために必要です。そのために地域おこし協力隊として、多くないけど給料をベースとして自由にアート活動をしてほしいという話もある。もし芸術家の活動拠点を創るなら、そうしたスペースは原状復帰しなくていいという条件ならありがたいし、逆に新しく入ってくる人の中には「壁紙が白くないなくてもいい」という人はいっぱいいます。確かに、制作に没頭できることは重要。ただ、公的なものがサポートしているのではない方が実は本当はいいということもあります。公的なものがサポートすると税金から資金を払うとなり、担当が変わると行政が介入してそれでアーティストが離れるというリスクも生まれる。アーティストにとっては「ほっといてくれ」が一番の本音だったりするんですよね。
その上でプラスアルファを言うと、地域住民とのネットワークがあるといいですね。新しい土地に赴いて作品制作をするにしても、山奥の一軒家にポツンとでは寂しいんです。問いかけに対して地元で回答して交流してくれる人がいるかどうかは、キーになります。全国各地には、公的なもの民間的なもの含めて、アーティストレジデンスという施設があるけど、地域住民との交流が大事だということに気付いているキュレーターやマネジメント担当者がいて、その担当者が地域の交流に参加してネットワークを作った上でアーティストを呼び込んでいるような事例は成功を収めています。例えば国際技術センター青森というところは、公営で成功している事例ですね。今は、コロナの状況でそれができなくて悩んでいるんです。場所の機能だけでもダメだし、お金というか働き口も必要だし、地域との交流も必要。さらに、それらが肩ひじ張らず、それぞれ血の通った感じで整えられていると、リラックスして根を張れる場所として候補になる得る。また、移住してくるアーティストをチョイスするときもアーティストとして優れているだけじゃなく、その背景に友達やネットワークがあるかも重要になってくる。書類審査で、その人を検索してから知り合いがいるなと思ってから選ぶというのもありますね。
アートで移住を促進している自治体は少なくないんで、広い視野と細かいサポート両方とも必要。瀬戸口さんのような住民と近い人から、ローカルな友達に自慢できるポイントを見つけて、HP見ただけではわからない接点を見つけてアピールしていくというのも重要です。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
地域おこし協力隊として、色んな側面から注目してもらうというのがもともとのミッションの1つで、そこにアートを重ねていくのが重要だとは考えているんですが、どうやって進めていけばいいのでしょうか。
――会田さん
日本には、アートは生活にとって必要不可欠だと思っている人は残念ながら少ないんです。ドイツのメルケル首相みたいに「文化は不可欠だ」という人は日本には少なくて、「余暇でやるもの」という認識の人が多いんです。これでは、中心にいる人がアーティストであった場合どんな人であっても難しい。だって、「巻き込まれた人」からして見れば、余計な事であることが多いんですから。だから、移り住んできたアーティストが周囲を巻き込むのではなく、もともとの地域の側に主軸があって、それに対してアーティスティックでクリエイティブな解決策を持ったアーティストが巻き込まれにいくというふるまい方が好ましいのではないかと思っている。ただ一方で、良くない巻き込まれ方というのも落とし穴として存在します。今回の取り組みで言えば、「無料で壁をきれいにしてくれるならやって」みたいな欲望の解決策として巻き込まれてしまうとだめなんです。Win-Winな形で巻き込まれていく方法を示していくというのも必要ですね。
マーケティングの正攻法とアーティストの心に刺さることは違うのでは
――会田さん
また、アーティストとして住み着く条件として、土地独特の歴史があるかで決める人は多いですね。指宿に限りませんが、たとえば中世の時代から続く伝統があるかどうか、民俗学的なアプローチをするアーティストは少なくないでしょう。民俗学者では考えつかない調査やアウトプットにつなげていけることは魅力的に映ると思いますよ。例えば2019年のヴェネチア・ビエンナーレで発表された、下道基行さんの作品で「津波石」という石が取り上げられています。沖縄の離島の遠浅の海にゴロンと石があって、これは、過去の津波でサンゴの塊が折れて、引き上げられて存在するというユニークな石なんですが、宇宙の卵というテーマで、架空の昔話をつくって全体のストーリーが練り上げられていたんです。こんなアプローチは民俗学者はしないけど、アーティストはするんです。作家としては、沖縄の津波石が存在する場所は滞在して魅力のある場所だったということだったんですね。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
指宿はカルデラの中にすっぽり収まっている火山の街で、観葉植物を地熱で育てるなど時代に合わせてその力を利用されてきました。現在では地熱発電とかもそう。おそらく、この先もマグマの力を使って生活が成り立っていくんですよね。
――会田さん
その点では、指宿は「惑星とともに生きている」ということが感じられる街というのが強みなんです。惑星そのものと共に生活があるという文脈を、観光資源になるかどうかわからないところから切りとると、アーティストとしてわくわくするということはあります。
ただ、地域おこし協力隊の制度の3年って資源、魅力を掘り起こしてアウトプットまでするには、実は短いんですよね。何を本質としていくのか、何がアイデアとして響くのかを何度も考えていって、さらに説明や言葉を研ぎ澄ませて、魅力として人の心をつかんでいくことまで到達させないといけない。ただ「映える写真をとって帰っていく」では寂しいじゃないですか。住んでいる人が作品を愛してプライドを持って誇らしげに自慢する、ということを後押ししていく取り組みになるといいなと思います。
――TOMOSHIBI・瀬戸口さん
指宿は風光明媚で自然資源があって、食材も豊富。でも、地元ではそれが当たり前になっていて、輝きに気付いていなくて、磨けていないというのはあると思います。コンテストで外からの人が輝くものを探して磨くというのも面白いのかもしれないですね。
――会田さん
多くの人にささるマーケティング的正攻法で行くのか、アーティストには刺さる何かみたいなもの、どちらを大事にするかというジレンマある。たとえば、西郷隆盛が政治的に干されていた時に住んでいたのが鰻池。その鰻池を離れるときに彼はワイシャツを残しているんです。本当は犬をあげようとしたんだけど「吠えるからこわい」と拒否されて、代わりにシャツをあげたそうなんです。その話は自分にとっては滅茶苦茶面白く映ったんですよ。多分、社会的には観光資源のコンテストでは100位にも入らないようなエピソードなのかもしれないけど、私はそれがきっかけで、実は指宿に何度かお邪魔したことがあるんです。そういう、街自体の強みについて一度、観光資源になるかどうか関係なく振り返ってみることも、アーティストを呼ぶ魅力探しには必要なのではないでしょうか。
脚注
1: ヨーゼフ・ボイスが提唱した社会とアート、そして市民の関係性を示す概念。
https://artscape.jp/artword/index.php/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%BD%AB%E5%88%BB